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YMOやユーミンを手がけたプロデューサー・川添象郎氏と,ゲームミュージックの父・小尾一介氏が登壇した「黒川塾 八十九(89)」聴講レポート
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印刷2023/03/01 15:00

イベント

YMOやユーミンを手がけたプロデューサー・川添象郎氏と,ゲームミュージックの父・小尾一介氏が登壇した「黒川塾 八十九(89)」聴講レポート

 トークイベント「エンタテインメントの未来を考える会 黒川塾 八十九(89)」が,2023年2月24日に東京都内で開催された。このイベントは,メディアコンテンツ研究家の黒川文雄氏がゲストを招いて,ゲームを含むエンターテイメントのあるべき姿をポジティブに考えるというものである。

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黒川文雄氏
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 今回の黒川塾のテーマは,「異端の肖像〜ユーミン,YMO,そして,ゲーム・ミュージックまで」。アルファレコードを設立し,荒井由実さん(松任谷由実さん)やイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)などをプロデュースした川添象郎氏と,同社でゲームミュージックの制作を手がけた小尾一介氏をゲストに迎え,過去・現在・未来のプロデュースとエンターテイメントのあるべき姿についてトークを繰り広げた。

川添象郎氏
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小尾一介氏
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“土俵際逆転うっちゃり”で生き残ったアルファミュージック


 川添氏は1960年代後半,フランスのバークレー・レコードにてプロデューサーを務めており,パリを拠点に活動していたという。あるとき,日本でブレイクしていた作曲家・村井邦彦氏から音楽出版を始めたいという相談を受けた川添氏は,さっそくバークレー・レコード社長との商談の場を設けたとのこと。

 その時点では,村井氏はまだ事業の構想をしていただけで,まだ会社を設立していなかった。そこで社名だけでも決めておこうと,村井氏が考案したのが「イプシロン」である。それはもちろん,αβγ……と続くギリシア文字の“ε”のことだが,川添氏が「そんなの面倒くさい。最初のアルファにしよう」と提案し,“ALFA”と書いたという。正しいスペルは“ALPHA”のはずだが,村井氏は“ALFA”のまま社名を登録してしまったそうだ。これが音楽出版社であるアルファミュージックの始まりで,1969年のことである。ちなみに村井氏が掲げた会社としてのコンセプトは「犬も歩けば棒に当たる」に始まり,最後は「ダメでもともと」というもので,社長室に飾ってあったとのこと。

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 そうして実現したバークレー・レコードの社長と村井氏の商談だが,立ち会っていた川添氏は廊下から聞こえてきたギターの音が気になり,場を離れて聴きに行ったという。その楽曲があまりにも素晴らしかったので,村井氏らの商談に割り込み話を聞くと,その曲はポール・アンカが英語の歌詞を付けて,フランク・シナトラが歌うという形で,近々アメリカでリリースする予定だと教えられたとのこと。そこで川添氏が「この曲の日本での出版権をもらおう」と提案し,村井氏が先方に打診したところ,問題なく話が通ったという。
 2人が日本に帰国して間もなく,その楽曲「マイ・ウェイ」は大ヒットし,初期アルファミュージックの大きな支えとなるわけだが,川添氏は「ツイてたんですよ。振り返ると,僕はツイてることが多くてね」と話していた。

 小尾氏は大学生の頃,川添氏の企画事務所でアルバイトをしており,卒業する直前に川添氏から電話で「アルファミュージックという会社を作ったから手伝ってくれ」と頼まれたという。大手広告代理店に就職する話も来ていた小尾氏だったが,「人生,面白くなるだろうな」と思い,川添氏に付いていくことを決めたとのこと。
 また小尾氏は当時の川添氏と村井氏について,「学生でしたからよく分かってなかったんですけど,そのあとは大変でした。今で言えば楽天やヤフーが登場したときくらいインパクトのある会社を作ってしまった」と振り返っていた。

 アルファミュージックが手がけた最初の音楽プロジェクトは,日本で最初のインディーズレーベルとなるマッシュルームレーベルだ。1971年当時の創立メンバーは内田裕也さん,ミッキー・カーチスさん,木村英輝さん,そして川添氏で,いわく「酷い面子だったんですよ」とのこと。4名が集まって「今の日本の音楽はダサいから,我々で格好よくしよう」と息巻いたところまではいいのだが,レコード制作のための資金を誰も集められなかったそうだ。そこで村井氏に「こういうことを4人で考えてるんだけど,乗る?」と相談したところ,二つ返事で参加した上に,1週間もしないうちに日本コロムビアから2000万円を調達してきたという。

 その資金を使い,マッシュルームレーベルからさまざまなレコードを出したが,結果は惨敗。その理由は,川添氏によると「趣味で作っていたから」とのこと。窮地に追い込まされたマッシュルームレーベルだったが,1973年2月,フォークグループ・ガロが前年に出した「学生街の喫茶店」がヒットした。なおガロは,1969年に川添氏が日本公演をプロデュースしたミュージカル「ヘアー」のキャストのうち3名が結成したグループで,最初は彼ら自身が作曲を手がけていたが,満足なものに仕上がらず,すぎやまこういち氏に依頼することになったという。

 余談だが,ヘアーの日本公演に関する交渉にあたって,なぜか画家のサルバドール・ダリが川添氏らに同行したというエピソードも紹介された。川添氏は「これはダリ(誰)だ?」と思っていたと冗談を交えつつ,「交渉がうまくいったのは,おそらくダリのおかげだった」と話していた。

 川添氏は「学生街の喫茶店」が収録されているガロのセカンドアルバム「GARO2」について,「マッシュルームレーベルの最後だと思って,ヤケクソで作った。村井君と僕の仕事には,土俵際逆転うっちゃりが多いんですよ」とコメント。また「学生街の喫茶店」がヒットした理由については,「(学生運動が下火になっていく)時代的にタイムリーだった。それを計算ずくでなく,好きに作っていたのがよかった」と分析していた。

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YMOとスネークマンショー,そしてユーミン


 そして1977年に,レコード会社であるアルファレコードが設立され,マッシュルームレーベルなどの楽曲販売権もここに移った。アルファレコードを代表するアーティストであるYMOの発端は,川添氏と村井氏が,優れたミュージシャンとして細野晴臣さんを紹介されたことだったという。細野さんはその場でギターを弾き出したそうだが,その何とも言えない味のある演奏に惹かれ,付き合いが始まったとのこと。そして荒井由実さんのバックでの演奏などで,細野さんがいい仕事をしていたことから「自由にアルバムを作っていい」という話になったそうだ。

 それから半年ほど経った頃,村井氏から川添氏に,細野さんの作ったYMOの音源を聴きに来てくれないかという打診があったとのこと。行ってみると,何だかピコピコ鳴っていて,途中からディスコっぽくなるような,今までに聴いたことのない──当時の川添氏にとっては“変な”音楽が流れてきたという。それが1978年11月にリリースされたYMOのデビューアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」の楽曲だった。

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 このアルバムは最初こそ細野さんの名前で売れたが,すぐに頭打ちとなってしまった。そこで川添氏はテレビ局にプロモーションをかけるが,「歌もないし,メンバーのルックスもそれほどよくないし,無理だ」と断られたとのこと。次にラジオ局に持っていったが,当時はロックやジャズ,演歌などジャンル分けがハッキリしており,どのジャンルにも当てはまらないYMOの音楽は流してもらえなかったという。
 結局,当時ブームになっていたフュージョンジャズに乗っかり,1978年12月に開催されたアルファ・フュージョン・フェスティバルにYMOを出演させることになったそうだ。

 並行して川添氏は,たまたま来日していたアメリカの音楽プロデューサーであるトミー・リピューマ氏と面会する機会を得た。手土産にシャンパンを何本も持ち込み,散々酔わせてからYMOの音源を聴かせると,リピューマ氏が「これ,いいね!」と言ったという。さらに,アメリカの若いプロモーターがYMOの音源を気に入っているという話もあったため,村井氏がA&Mレコードの副会長だったジェリー・モス氏と連絡を取って,同社からアメリカでYMOのアルバムをリリースする契約を取り付けたとのこと。

 酔いが覚めたリピューマ氏は,最初にYMOの音源を聴いた川添氏と村井氏同様,どう売るか頭を抱えるハメになった。あるときオフィスでその音源をかけていたところ,当時アメリカで人気のあったThe Tubesのマネージャーが「面白い」と気に入り,1979年8月にロサンゼルスのグリークシアターで行われる野外ライブの前座としてYMOを起用したいとオファーしてきたそうだ。

 これはチャンスだということで,村井氏と川添氏はオファーを受けたが,アメリカのライブではメインのアーティストを引き立てるため,前座の演奏ボリュームを絞ることが頻繁にあり,そこが気になっていたという。そのため,YMOのメンバーとともにロサンゼルスに行った川添氏はライブのディレクターに金を渡し,「ジェリー・モス肝入りのバンドだから,きちんと音を出さないとショービジネスで飯を食えなくなるぞ」と釘を刺したという。

 また川添氏は,YMOのメンバーに対して「日本人としてのアイデンティティを出さなければならない」として,何か“制服”を着用することを提案。それで生まれたのがYMOの代表的なファッションとして知られる人民服である。考案したのは2023年1月に亡くなった高橋幸宏さんで,川添氏は「あいつはセンスがいいから」とコメントしていた。

 そうやって始まったYMOのライブは,1曲めで8000人のオーディエンスからスタンディング・オベーションを受けた。ただし,川添氏によると「アメリカで夏に行われる野外ライブは,ほとんどの観客は酒か何かで酩酊している」という。つまり,YMOの音源を聴いて「いいね!」と言ったときのリピューマ氏と同じというわけだ。

 しかし,オーディエンスがYMOの演奏に熱狂しているのは事実である。そこで川添氏が撮らせた映像を,村井氏がNHKに売り込んだところ,ゴールデンタイムのニュースで15分にわたって取り上げられ,視聴率22%を記録する事態となった。
 その翌日からYMOのアルバムは飛ぶように売れ始め,1979年9月リリースのセカンドアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」は,1日に何万枚も売れていたそうだ。川添氏は「これも土俵際逆転うっちゃりだった」と話していた。

 小尾氏は当時を振り返り,「あれだけ大きなシンセサイザーや電子楽器で生演奏するのは珍しかった」と指摘。たとえばレコーディングスタジオ内では,機材が壊れても修理してから再収録することが可能だが,ライブだとそうはいかない。しかしYMOの場合は,演奏中に機材が壊れても,坂本龍一さんが自分の手で楽器を弾くといったフォローができたので,ライブを実現できたそうだ。
 その一方でYMOのサウンドは,それまでのアルファレコードのそれとはまったく異なっていたため,村井氏は気に入っていなかったという。村井氏がYMOを認めたのは,川添氏のおかげだと小尾氏は話していた。

 細野さんが,電子楽器を使った演奏に興味を持つようになったのは,当時のゲームサウンドに触発されたからだという。小尾氏がアルファレコードにゲームミュージックレーベルとなるG.M.O.レコードを立ち上げたのも,細野さんが「ゼビウス」にハマったことがきっかけだそうで,「音がミニマルミュージックみたいだったので,細野さんがこれをレコード化したらいいんじゃないかと提案してきたんです。そこから映画のサウンドトラックがあるように,ゲームのサウンドトラックも1つのジャンルになり得るだろうという話になっていったんです」と説明した。ちなみに川添氏は,そうやってゲームミュージックを扱うようになった小尾氏を見て,「何やってんだろう。大丈夫かな」と思っていたとのこと。

 川添氏は,アルファレコードを「いろいろな特殊技能を持った豪傑達が集い,ときの権力に逆らって大暴れする。当時のアルファレコードは,日本のレコード会社の中では梁山泊みたいな存在だった」とコメントした。
 例として,細野さんが譜面を使わず,口頭で進行などを指示するヘッドアレンジでレコーディングをしていたことを挙げ,「スタジオに4〜5人集まって,それから『さあ,どうしよう』って。料金が1時間4万円のスタジオでそれをやられたら,いくらお金があっても足りなくなっちゃう」と,当時のエピソードを披露。「吉田美奈子もそんな感じだったし,大村憲司や渡辺香津美みたいな普通のレコード会社ではハンドリングできないミュージシャンばかりの,非常にユニークな会社だった。やりたい放題」と続けた。

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 そんなアルファレコードだけに,リリースするアルバムにも独特なものが多く,タレントとして知られるタモリさんのアルバムも出している。それら独特なアルバムの代表が「スネークマンショー」シリーズで,川添氏は「ほとんど音楽が入ってないんだよね。でたらめな喋りで下品な冗談を言って,その合間にちょっと音楽が入る。それが60万枚も売れた。今だったら,あんなのラジオでかけられない」とコメント。
 一方,小尾氏は「スネークマンショー」がもともとラジオ番組であり,アルバムもラジオのフォーマットで収録したために,喋りの合間に曲が流れる構成になっていたことや,内容もかなり吟味して丁寧に制作されていたことを指摘した。

 さらに小尾氏は,当時「スネークマンショー」シリーズをカセットテープに録音して,リスナー同士で共有しているという背景があったことを説明し,本家としても何かやってやろうと「スネークマンショー 海賊盤」をカセットテープのみでリリースしたエピソードを披露。そのパッケージの大きさがコンドームの外箱に近いという理由から,パッケージデザインや同梱する解説書の形状もそれっぽく見えるようにするというチャレンジをしたそうだ。
 そんな「スネークマンショー 海賊盤」は,10万本以上のオーダーがあったのこと。しかし当時アルファレコードのディストリビューターだったビクターが,パッケージデザインや音源の内容はともかく,解説書の形状に難色を示し,発売日の直前にすべて外す羽目になったという。

 楽曲以外の工夫はほかにもあった。日本ではレコード盤のサイズと言えば12インチが主流だが,海外では10インチのものもあり,それがお洒落に見えた小尾氏は,YMOの「増殖 - X∞ Multiplies」を10インチ盤でリリースすることにした。だがサイズが小さいので店頭では周囲の12インチ盤に埋もれてしまう。その解決策として段ボールで枠を作り,12インチ盤と同じサイズにしたそうだ。

 それらのチャレンジは「面白いから」やっていたため,あまり苦労だとは捉えていなかったそうで,川添氏は「どこもやってないことをやっていたから売れた。たかが流行り歌に,格好つけてもしかたない」と説明。小尾氏も「ビクターやソニー,日本コロムビアといったレコード会社は,ハードメーカーの子会社として出発している。そうなると,日本を代表するメーカーのグループ企業として,ここまでは許せるけれど,ここからはダメという基準が生まれる。アルファレコードには,それがなかった」と話していた。

 話題は,荒井由美さんにもおよんだ。川添氏は,前述のミュージカル「ヘアー」が縁となり,1969年にまだ15歳の荒井さんと知り合ったとのこと。荒井さんは,当時川添氏の義母が経営していた六本木のレストラン・キャンティの常連だったそうだ。そのほかの常連は,かまやつひろしさんやミッキー・カーチスさん,加賀まりこさん,大原麗子さんといった錚々たる面子だが,川添氏に言わせれば「皆,不良だからね。皆さんは音源や映像を通して格好いい部分しか知らないけど,全員不良ですよ」。その中でも,まだ10代と一際若い荒井さんは元気がよく,川添氏の義母にすごく可愛がられていたという。

 そうした流れで,荒井さんは「私,いい曲書くんですよ」と言ってきたとのこと。そこで川添氏と村井氏が聴いてみたところ,「才能あるね」となりプロジェクトがスタートしたそうだ。川添氏は「あれだけの楽曲を作る能力があれば,それなりの作曲家にはなっただろうが,あの出会いがなければ今のユーミンにはなっていなかった」とも話していた。
 また荒井さんのセカンドアルバム「MISSLIM」(ミスリム)について,川添氏が「やせっぽちの女の子だったから,ミス・スリム。それをくっつけてミスリムと名付けた」というエピソードや,川添氏が演出した最初のコンサートで,荒井さんが「ひこうき雲」を歌っている最中に感極まって泣き出したエピソードも披露された。


この50年間で大きく変わった音楽を取り巻く環境


 川添氏は,自身が語った数々のエピソードが今から50年も前に遡ることに言及し,「(自身が)全然成長してない」と一言。また小尾氏も「まったく変わってないですね」と同意した。
 その一方で,この50年間で音楽を提供するメディアは,レコードからCD,そしてダウンロード販売やストリーミング配信と大きく変化している。川添氏はデジタル音源の流通に対して「けしからんよね」と思っているそうで,「スティーブ・ジョブズが広めやがったせいで,レコード会社が冬の時代に入った。だから僕は,彼を泥棒だと。もうね,あいつの名前は“スティール”・ジョブズだ」と発言して,レコード会社のスタッフを喜ばせたエピソードを披露。さらに「テクノロジーの進歩は,文化にとっていい結果をもたらすかどうか分からない。テクノロジーが文化を潰すこともある」と持論を述べていた。

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 しかし提供するメディアが変わったとしても,人の創造力は変わらない。小尾氏は,1970年代からデジタル技術がアーティストやクリエイターの道具として使われるようになり,さらに1990年代になってインターネットが普及したことにより,世界全体が変革されたと指摘し,「かつては音を出すにも1人ではできなかったが,今や1人で作ったものを瞬時に世界へ届けられる。たとえばYouTuberの作った番組が,地上波のそれより面白いことも珍しくなくなった」とコメント。
 その一方では,そうしたクリエイティブをお金に換えられなければクリエイターは生活ができないとし,「そうした仕組みが次に出てこなければならない。最近ではNFTが近いけれども,特別なコンテンツに全部ナンバーが振られて,どこで売っているか,誰が買ったのかが分かるような仕組みがしっかりできたあとから,経済的な部分が付いて来るのではないか」とも話していた。

 またインターネットの台頭などで時間や距離の概念が希薄になったことの影響について,小尾氏は「昔は,偶然の出会い──つまり時間や空間を共有することでで何かが生まれることもあったが,インターネットによってその機会が少なくなったため,感じ方や表現が変わっている」とする。さらに「それが良い悪いではなく,そういう環境,器になったということなので,伝える手段も含めて新しい中身が出てきたあとに,人を感動させるものが生まれる。YMOを当時の皆さんが面白がったのも,器となる下地ができていたからこそ,何かを投げ込んだら広がったということなんです」と語った。

 レコード会社がレーベルを設ける意義についても言及がなされた。小尾氏は「プロデューサーはアーティストの発掘を,レコード会社としては音楽を作り広めることを考える。その過程では,アルバムジャケットのデザインや衣装,PVといった映像的なことも考えなければならない」とし,「そのときにレーベルを持つことは,プロデューサーの思想などを示す上で1つのステータスとなる」と説明。

 小尾氏自身,YENレーベルなどを立ち上げているが,それは集団としてのイメージを作ることで,店頭の販売スペースを取りやすくするという狙いもあったそうだ。
 とくにG.M.O.レコードについては,レーベルという形を取ることによって,ゲームミュージックという1つのジャンルとして認知されることを狙っていたという。

 川添氏がアルファレコードを離れた理由も明かされた。それによると,YMOを引率してワールドツアーに出ることに疲れたからとのことで,「身体が壊れちゃったと村井君に言ったら,『軽井沢にある僕の家で休んだらいいよ』って」。ついでに村井氏から,当時A&Mレコードが力を入れていたという環境音楽のアルバムを何枚か渡されたそうで,軽井沢に着いて,浅間山を見ながらそれらを聴いたところ非常に癒やされたという。その経験から,環境音楽プロジェクトを自身で始めようと思い立ち,アルファレコードを辞めることにしたそうだ。

 1985年には,村井氏もアルファレコードを辞めてしまう。小尾氏によると,それによってとくに苦労したことはなかったが,新たな社長は当時の主要株主だったヤナセから来ていたため,川添氏の言う“梁山泊”的な雰囲気を理解してもらえなかったとのこと。それについて川添氏は,「レコードを作って売るなんてのは,当たれば大化けするけど,当たらなかったらゴミ。ファンキーじゃないとやってられないんですよ」と語り,「僕は制作のトップだったから,本来は『この日までにいくら売り上げる』とか言わなければならないんだけど,一切言いませんでしたね。売れたらえらく儲かります。売れなきゃ元も子もない。アルファレコードだから,それが許された」と在籍時代を振り返っていた。

 1986年には小尾氏もアルファレコードを退職して,「ゼビウス」の開発スタッフとともにサイトロン・アンド・アート(当時はデジタル・エンターテイメント)を設立,1988年にはサイトロン・レーベルを設立して,G.M.O.レコードからも離脱する。その理由は,デジタルの進化に応じて,より総合的なインタラクティブコンテンツの制作をやりたいと考えたからとのこと。小尾氏は「今考えると無謀なことだったが,何も考えないでゲームの音楽やビデオ,ゲームソフトそのものも作っていました」と当時を振り返った。

 そののち,ゲーム会社がレコード会社に頼らず,独自にゲームミュージックのアルバムをリリースするようになる。小尾氏は,初期のゲームミュージックがゲーム基板から直接音を取っていたが,CD-ROMの時代になると人間が演奏した音楽も使えるようになったため「作り方と,製品・商品としてのあり方が変わった」と説明していた。

 そうやってアナログからデジタルに移行し,さらにその先を見据えるような小尾氏の半生を見てきた川添氏は「尊敬するね」と語る。
 また小尾氏は,先日の高橋さんの逝去にあたり,細野さんが「審美眼」に言及したことに触れ,「その高橋さん以上の審美眼を持っている」と川添氏を絶賛した。

川添氏が自身の半生を綴った書籍「象の記憶 日本のポップ音楽で世界に衝撃を与えたプロデューサー」が2022年7月に刊行された(外部リンク
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 そうした川添氏の審美眼は,生母の原 智恵子さんが国際的なピアニストだったことや,父親の川添浩史さんが文化交流プロデューサーを務めていたなど,家庭環境で磨かれたものである。そんな川添氏はプロデュースについて,「たとえば音楽なら,音楽的な能力がしっかりした人でないとなかなかいいものはできない。プロデューサーがすごく優れた演出能力を持っていない限り,歌のうまい人のほうがいいものになる。資質があったらトレーニングしていい形になってもらうよう指導するけど,いい形にできなかったらもう無理」と持論を語った。また荒井さんの例を挙げ,「ユーミンはもともと自分で歌うつもりがなかった。声が震える“ちりめんボイス”だったので,それを徹底的に直した。それに付いてきた彼女もすごい」とも話していた。

 また小尾氏は,村井氏から「“craze”(熱狂)を掴め」と教えられたという。プロデューサーとしては人の才能や努力,あるいは儲かる儲からないとは別に,「この人の作り出したものを楽しんでほしい」という気持ちがあるが,それは実現が非常に難しく,たとえばデビュー当時のYMOのようにテレビに出られないといったこともあると指摘。そうした場合に,最初は1人でもいいから熱狂的なファンを作ることによって,その人を軸にどんどんファン層が広がっていくと話す。またプロデューサーも,自身がプロデュースする人の熱狂的なファンであるべきとも語っていた。

2023年3月29日にリリースされるアルバム「象の音楽 〜世界に衝撃を与えた川添象郎プロデュース作品集〜」も紹介された。YMOや荒井由美さんの楽曲を含む,川添氏がプロデュースを手がけた28曲が収録されている(外部リンク
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