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ゲームの中で歴史を扱うには? イタリアの気鋭のデベロッパが,新時代の歴史ゲームを語る
歴史は戦争にあらず
最初に指摘された問題点は,実際に「歴史(Historical)」でSteamを検索すると,具体的に観測可能だ。このキーワードで検索すると,表示されるゲームのほとんどは,第二次世界大戦(WW2)を扱ったゲームに絞り込まれるのである。
これは現状における「ゲームと歴史」の関係の,ひとつの象徴と言える。ゲームジャンルとしての歴史は,FPS(兵士として戦争を戦う)か,RTS(支配者として戦争を戦う)ゲームのことだ。そしてこれはまさに,「悪魔の辞典」においてアンブローズ・ビアスが書いた状況そのままである。
もちろん,戦争を扱っているから,即,その可能性を狭めている,というわけではない。戦争をテーマとしながら(あるいはサブテーマとしながら),より歴史的に幅広い題材を扱ったゲームも,その数を増やしている。
例えば「Unmanned」は現代の戦争をよくとらえているし,「Valiant Hearts」は第1次世界大戦を多角的に表現している。「Killbox」はドローンが用いられる戦争の有様を描き,「My Child: Lebensborn」はWW2戦後のノルウェーで起きた差別問題を扱っている。
これらの作品に共通するのは,ゲームという手段を用いることで,忘れられようとしている(あるいは知覚の外に置かれようとしている)歴史的なディテールを,プレイヤーに追体験させることができている,という点だ。
We are Muesliがリリースした「Venti Mesi」も,そんな作品である。
この作品はWW2期におけるイタリアで,ナチに対するレジスタンスの活動を描く作品となっている。ゲームは20の視点で分割されており,兵士やレジスタンスがどう生きたかという視点だけでなく,例えばその時代のゲイ・カップルがいかにして生きたかといったことも描いている。
歴史をどう「解釈」するか
となると,ここでひとつ疑問が発生する。
歴史を掘り起こせば,多くのディテールに遭遇する。これらをいったい,どのようにしてゲームの物語として実装すればよいのだろうか?
この手法として,まずは歴史的事実の収拾から始まる。いつ・どこで・誰がという点について,調査と考察を進めていくのである。
ここで面白いのは,歴史的事実をゲームに落とし込んでいくにあたって,「いつ」は揺るがし難いが,「どこで」「誰が」の2点については,ゲームならではの解釈が必要になる(ないし解釈したほうが良い)という点だ。
歴史的事実として何が起こったのかについてのリサーチは必須だが,それをゲームで表現するにあたって右から左に持ってくるのでは,ゲームにならない可能性がある。これは「誰が」についても同様で,誰の視点で語るのかという点については,デザイナーの解釈なしにはゲームを損ねる可能性が高い。
では実際,We are Muesliのチームはどのようにしてそこで歴史を「解釈」しているのだろうか?
これまた面白いことに,彼らは歴史的な写真を,その解釈のベースとして活用するという。以下の写真に描かれたいくつもの補助線が示すように,写真の細部に潜む事象や物語,心理などを解釈し,そこからゲームの物語を作り上げていくのである。
兵士は何かの書類を見ていて,市民は兵士を見ている。視線の方向が一致しない |
兵士はより前のめりの姿勢になっており,市民は押されるように(あるいは何かを隠すように)後ずさる姿勢 |
兵士の手ははわりとリラックスした状態だが,市民の手は緊張を示すかのように固く握られている |
どういう事情で彼はこの傘を持っているのか? |
このように,ゲームの内部に歴史を取り込んでいくにあたって,We are Muesliのチームはまず「歴史的な映像記録を解釈することで,ゲームをデザインする」というルートを選ぶ。
個人的には,これはとても興味深い手法だと感じた。歴史に基づいたゲームを作る場合,歴史を解釈するという作業は絶対に欠かせない――というか,デザイナーが歴史を解釈した結果がゲームである,と言ってもいい。そうやって歴史の振れ幅を最初から確保しない限り,歴史ゲームは「何度やっても歴史通りの結果を出す装置」になる。そういうゲームがあってはならないとは言わない(実際,ある)が,遊んでいて楽しいものでは,まったくない。
一方,こういった「解釈」は,しばしば抽象的なレベルで行われるのが一般的だった。最もわかりやすい例を挙げれば,「信長の野望」で武将をパラメータ化するような作業だ。人間をたかが数個の数値で表現するのはまったくもって不可能だが,「武力」「知力」といったパラメータ区分を設定し,それに対して数値を当てはめていくことで,デザイナーは歴史を解釈しているのである。
だがここにおいて,We are Muesliのチームが歴史的な画像記録を解釈のベースにするというのは面白い。ゲームのビジュアル表現に自由が効くようになった昨今,確かにこの「画像を解釈する」という手法は,ゲームを作り上げるにあたってとても有益なアプローチであるように感じる。
続いて,史実とフィクションの間で,どうバランスをとったらより遊びやすいゲームになるか,という点が問題になる。
これまた,歴史系のゲームを作ったことがある方ならお馴染みの問題だ。そもそも歴史は面白いものだが,ゲームとして遊べるものにしようと思うとあまり面白くならなかったり,あるいはすでにプレイヤーの内部にある思い込みがゲームの障害になったりする。前者は戦争が題材のゲームで言えば「極端にバランスの悪い戦場」で,後者は「桶狭間の戦いは計画的な奇襲攻撃ではなかったので,そのように再現したゲームを作りたいが,プレイヤーの多くは計画的な奇襲攻撃と理解している」的な問題だ。
これらをゲームとして楽しんでもらうためには,どこかで史実とフィクションのバランスをとらねばならない。
最後に,ゲームに登場するキャラクターに,どう歴史性を反映させるかという課題がある。
この例としては,We are Muesliがストーリーを提供した“ナラティブ・ドライブゲーム”である「Wheels of Aurelia」がピックアップされた。
この作品は1970年台のイタリアを主な舞台としており,グラフィックスもそれを反映したものとなっている。だが本作を個性付けるのは,レースゲームでありながらも強烈な個性を発揮するキャラクター達だ。
このキャラクター達は,1970年代において有名だった人物をモデルとしたり,あるいは当時盛んだった運動(フェミニズム運動や「赤い旅団」によるテロリズムなど)を反映したりしている。
もちろん,登場キャラクターは実在の人物そのものではない。あくまで1970年代末という「時代」をプレイヤーに体験させるために,適切な人物モデルとなりうる人物を史実から選び出し,それを解釈して,ゲームのキャラクターとしているのである。これによって,プレイヤーは登場するキャラクターのやりとりを読んでいると,自然に「あの時代」の空気を感じ取れるという構造だ。
ゲームと歴史の可能性を示す5か条
最後にWe are Museliのチームは,ゲームの中で歴史がどのように扱いうるか,そしてその可能性を,5つの観点から解説した。順番に紹介してみよう。
1:歴史はゲームデザインと物語にとって,巨大な金鉱であり得る
歴史と言ったとき,「大きな歴史」だけでなく,個人的な歴史というものがあることにも注意が必要だ。極めて個人的な体験を,ゲームという形で表現したゲームの中にも,優れた作品は多い。
2:地域の歴史を世界に訴えるにあたって,ゲーム以上の手段はない
「IKEA Supply Assistant」はグローバルゲームジャムのマルタ会場で作られた作品だが,デザイナーの小さな体験を,多くの人とシェアするにあたって,ゲームが持つ力を感じさせてくれる。
3:もし「歴史は繰り返す」のが真実であるなら,そこで惹起される感情には普遍性があるはずだ
「Paper, Please」をプレイすることで,行き過ぎた(そして不完全極まる)官僚制の一部に組み込まれることがいかなるものかを,主義主張にかかわらず,世界中の人が体験できる。
4:歴史的であることと,教育的であることは,イコールではない(ただしゲームから知識を得られるなら,それはそれで素晴らしい)
講演では「The Oregon Trail」や「80 Days」がサンプルとして提示されたが,日本の多くの読者にとっては「艦これ」がこの可能性をもっとも良く示しているだろう。
5:定説が定まっていない歴史は,ある意味でゲーム向け
ゲームはさまざまな異なる結果が出てこそ面白い。逆に言えば,JFK暗殺のように,未だに議論が百出するテーマであれば,ゲームとして異なる結果を出すことにも障害は少ない。
歴史をゲームで扱うにあたっては少なからぬ困難があるし,例えば“ヒストリカル・シミュレーション・ゲーム”が持つジレンマについては筆者も何度か議論してきた。また,あくまでエンターテイメントとしてゲームを作った場合でも,そこで展開される「歴史」を,あたかも「史実」のように理解してしまうピュアすぎるユーザーが現れるのも,わりと避けがたい(歴史的であることを,教育的であることとイコールで捉えてしまったパターン)。
だが現在,歴史をモチーフとしたゲームは,かつてない広がりを見せようとしている。なかでも「より近い時代の歴史」をテーマとしたゲームは,「Paper, Please」から「This war of Mine」まで,さまざまに傑出した作品を生んでいる。
日本の場合,どうしても「歴史的であることと,教育的であること」を,イコールで結ぼうとする(あるいは結ぶことが「正しい」とする)傾向は,強い。だがその一方で,「戦国BASARA」のように,自由奔放に(それでいて史実をきちんとリサーチ・リスペクトして)作品を作るケースも多い。
願わくば,この傾向がもう一歩進み,戦国時代や第二次世界大戦といった「戦争」だけにとらわれず,歴史の隅々からモチーフをとってゲームとするような作品が日本でも増えてくれればと思わされる講演であった。
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