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【島国大和】ゲーム開発は独裁がいい? 民主主義的な開発はなぜ多くの問題をはらむのか
島国大和 / 不景気の波にもがく,正体はそっとしておいて欲しいゲーム開発者
島国大和のド畜生 出張所 |
お疲れ様です! デスマーチしてますか? お久しぶりの島国大和です。
そんな挨拶をしておいて何ですが,コンプラだのライフワークバランスだのいろいろあるせいか,最近はめっきりデスマーチっぽい進行を見なくなりました。これも時代の流れでしょう。
私は初代PlayStationやセガサターンの初期あたりからゲーム業界で働かせてもらっていますが,あの頃は無茶な働き方が当たり前でした(自分の観測範囲の話です)。休日出勤が当たり前だったり,机の下で寝てる人が多くいたり,ですね。寝袋で寝ていたプログラマーが業者の燻蒸消毒でいぶりだされていた時代です。
もう少し時代が流れて,ネットワークゲーム,MMOなどが流行した時期だと,開発が終わったと万歳した直後から運営開始。サーバ監視で張り付き,イベントで張り付き,何かあるとサーバから携帯電話にメールが飛んできて即対処,みたいな時代がありました。
世間のイベントと,ゲーム内のイベントは基本かぶるので,クリスマスやお正月といった時節柄イベントはサーバ監視の思い出しかありません。
「アイテムがデュプリしてます」
こう聞いた瞬間に心臓がキュッっとなる人もいるでしょう(デュプリはデュプリケート,「複製する」「重複する」の意味です)。何らかの条件でのアイテム倍増系のバグは,関係者を心胆寒からしめました。ロールバックか,補償か,どこまで被害は大きくなっていくのか……。
ところがどっこい,そんな時代は過去のもの。今は組織がしっかりしているところも増えて,人員配置や交代制,役割の細分化によって,よほどの鉄火場でないとそういう光景を見なくなりました。自分の周辺だけかもしれませんが,勤務状況は前より改善されたところが多い気がします。
ならばみな幸せか?
これが難しいところかもしれません。自分はデスマーチ連打の頃の方がいろいろとやりやすかったと思うこともあります。同じような勤務状況は二度と御免ですけど。
今回はそのあたり何が違うのかを考えてみましょう。キーワードは「独裁開発」と「民主主義開発」です。
ジャッジを誰がするか。強引に責任者が決めていくか。合議制でやっていくか。どれを指向するか,という話にフォーカスします。
独裁開発と民主主義開発
かつての開発は人数が少なく,割とシンプルな体制のプロジェクトが多かったのですが,現在は巨大規模かつ複雑怪奇なプロジェクトが多くなっています。それゆえ開発は難航しがち。
さて,多くの人の意見をどうやって集約し,この複雑怪奇な開発に立ち向かうべきか。
これを便宜的に,開発パターンの組み合わせとして,ざっくり分けて考えてみましょう。
「賢人の独裁的開発」
「愚人の独裁的開発」
「賢人の民主的開発」
「愚人の民主的開発」
我ながらざっくり過ぎる。
ちなみに上から順に効率が良い開発です。下に行けば行くほどプロジェクトは問題を抱えやすくなります。以下で詳しく説明しましょう。
●賢人の独裁的開発
よく独裁は悪とされますが,それは国家などの逃げ道のないシステムだからであって,ゲーム開発のようなプロジェクトの効率だけを見れば独裁がベストです。
嫌なら逃げればいいですし。逃げられて困るなら独裁者は振る舞い方を考慮します。賢人が目的に向かってちゃんと独裁するなら,効率は最も良い。「銀河英雄伝」みたいなものですね。
●賢人の民主的開発
リーダーが賢人であるなら,民主主義でも効率はある程度担保されますが,些細な意見のズレで話がややこしくなりがちですし,遠慮のし合いも効率を下げます。
民主的な仕事というものは,どうしてもスキルレベルの低い人に基準や視点を合わせることになるんです。できた人間であるほど強引な進め方をしないので,民主主義でやると本来出るべき馬力が出ません。
大手パブリッシャのAAAタイトルの開発費を見ると,目の玉が飛び出すと同時に,「それにしても,もうちょっと安く作れるんじゃないの?」という疑問が浮かびがちです。
ああいうスペシャルなタイトルは,どうしても多くの人が関わるので,意思疎通コストが高くなってきます。多くの意見を聞きながらやっていると,終らなくなることも多いでしょう。
ここが,賢人愚人の逆転現象が起こり得るポイントです。賢人の民主的な進め方より,愚人の独裁的な進め方が早い,というケース。
●愚人の独裁的開発
愚人の独裁なんか効率いいわけないじゃないか! その通り,いいわけがありません。いいわけありませんが,基本的に偉い人の仕事って「ジャッジ」であって,現場で手を動かしてものを作るわけではないので,ジャッジの当たり運があれば悪くない話でもあります。
ましてや独裁者の能力が平均より上なら,全体の平均になる民主主義より,ジャッジがマシになりやすいのです(平均より上ならば愚人ではないのでは……? という気もしますが,賢人とも言えないのでここは置いておきましょう)。
ですので,独裁的振る舞いをしている人の能力が平均以下ならば,頬かむりして逃げ出したほうがいいこともあります。あきらめて早めに試合終了して,次のコートに行くと,勝てる試合が待っているかもしれませんから。まぁ逃げ癖がつくと,次のコートもその次のコートも地獄になりがちではありますが。
●愚人の民主的開発
さて。これが最悪です。仕事を進めるのが困難です。
やるべきことが決まらない,優先順位を間違う,どれが正解か分からない。ジャッジをするにも民主的にやっているとフラつく。
なるほど,乱世に救世主希求が増えるわけです。
だいたいそういうイメージですね。
民主主義的開発の問題点
どうすればうまくいくのでしょうか。
テレビドラマや漫画を見ていると,ゲーム開発に限らない物作りのシーンで,開発者たちが喧々諤々の議論を繰り広げた末,全員納得の何かを作る……みたいな話がありますよね。
あれは嘘です。
おっと,極論でした。石を投げるのはもうちょっと待ってください。
ああいう議論の末に出た答えにみんなが納得して大成功,というのはあまり見たことがありません。そういう会議のあと,やり遂げた顔で「こう決まったよー」と決定事項を通達した人に,プログラマが即ブチ切れ……とかなら見たことありますけど。
なぜ,議論によって決着をつけにくいか。皆が納得しにくいかをちょっと説明しましょう。
たとえば,10人の開発者でRPGを作るとしましょう。メンバーはこんな感じです。
- ドラクエが好き
- FFが好き
- ウルティマが好き
- ラスタンサーガが好き
- 格闘ゲーマー
- FPSしかしてない
- ソシャゲしかしてない
- ソシャゲのガチャはゴリゴリ回すが,イベントは回さない
- RPGはダルくて嫌い
- 最近ゲームしてない
これで意見が合うことがあるのか。かなり難度が高いわけです。
数学ならば100%の正解がある。自然科学ならば観測からだいたいの着地点が見える。それは「正解」が人の外部にあるからです。
しかしゲームはダメです。ゲームは「体験」なので,正解が個人の中にあります。
莫大な数のゲームがあり,それぞれを個人が「体験」して「経験」になっているので,各々が自分にとっての“正解”を持っています。体験と経験から導き出された正解は強いですよ。自分ではなかなか否定できない。
これを互いにテーブルに出し合って,納得する着地点を見つけることは非常に難度が高いです。
納得するまで議論をし尽くして,何かを得られる場合もあるでしょう。しかし複雑怪奇に巨大化したプロジェクトで,何かあるごとに多数の関係者が納得できる合意地点を探すのは,もはや徒労に近いです。
そもそもの話になりますが,「面白いゲーム」なんて人の数と同じだけあります。ターゲットを絞っても分かりませんし,ユーザーテストを延々繰り返したところで,尖った何かを失っていくだけの場合もあります。
みんなで納得するのではなく,誰かがジャッジしていかないと,どうしても「コストをかけた特徴のないもの」になっていくんです
さらに悪いことを言えば,人が多くなればなるほど,「ゲームを面白くするため」とは違う理由で関わる人も増えます。
特定の思想であったり,自身の好みであったり,自身のポートフォリオのためであったりです。開発経験のない人も増えます。
どの人も悪意を持っているわけではないのですが,民主主義的なリーダーだと「本気でゲームをよくするために,そこはちょっと折れてほしい」と言うべき場面になっても,「そこは各自うまくやってね」とか好きにさせてグダらせがちです。
こういった,面白さとは直接関係しないものをフラットに扱ったうえで,良いゲームを完成させるには,ちょっとした奇跡が必要でしょう。
現在のゲームは昔と違ってハードウェアもハイスペックになり,開発環境も整っているので,やろうと思ったら何でもやれます。「それはできません」ということはほとんどなくなりました。
もちろん,何でもできる状況だからといって,何でも作ろうとすると,普通の予算では足りません。昔なら「適当にキャラ出して動かしておいて」で済んだ部分にも,何通りものやり方や,その後の量産を考えた設計があり,それも正解は1つではなく,運用とチーム構成に合わせて最適解を探す必要があります。
なので,いちいち全員で民主主義している場合ではありません。
全員がプロフェッショナルで,仕事の目標がしっかり決まっていれば,全員の意見が合うことも理論上はあります。「俺の好みとは違うが,このターゲットに向けて,こういうゲームを作って,こういう商売をするのならば,ここの仕様はこうだ」という判断を全員が的確にできる場合ですね。
でも現実のチームがプロフェッショナル揃いになることなどめったになく,大抵の場合,メンバーは新人,実績はあるが最近の開発に疎い人,開発外の能力が高い人,性格的に問題のある人等々,バラバラです。バラバラでないと必要なスキルを網羅できないものだからです。
そもそも複雑怪奇化した現在の開発では,3Dのエキスパートは3Dに没頭している必要がありますし,プログラマはプログラムに没頭している必要があります。
誰にとっても1日は24時間なので,必要とする知識ベースの構築に時間が取られる分,チームの共通言語になるべき知識は不足気味になります。エキスパートな人ほど,そのほかの知識は欠けがち。
チームとしての共通認識がフワフワしたままの開発はなかなか恐ろしいですが,そうなる土壌ができあがってるんですよね。
そして,前述したように,自分の体験や経験から来るものが一番正しいという気持ちは強いです。エキスパートはエキスパートで,自分の分野に関しては成果も出してきているので,自分が一番詳しい自負があります。あって然るべき。
もちろんそのうえでみんな大人ですから,状況に合わせてポキポキと折れることもできます。必要とあらば自分の意見をすぐ引っ込めます。
「わかりましたじゃあそこは,おっしゃるようにすすめましょう!」
しかし一度引っ込めると「ここに関しては俺の責任じゃない」というまずいスイッチが入りがちです。
民主主義的にうまくやるのはなかなか難しいです。
意思疎通って難しい
最近インディーゲームですごいのあるじゃないですか。めちゃくちゃ凝ってるのとか,自由度が高いのとか。海外のインディーズはもはや,大手パブリッシャとデベロッパ的な座組ではないだけで,きっちりしたプロダクションです。
彼らのストロングポイントは「こういうゲームを作って売るぞ」を目的とした組織のため,意思疎通が容易な点です。コアメンバーの多くが開発エキスパートなのも大きいです。
チームの目標が定まっていると,何のための作業か明確ですし,そのジャンルを作る前提のメンツならば意思疎通が楽です。また,権限者がジャンルに詳しく,プログラムやグラフィックスの知識が高いと,ジャッジに安定感があります。
そこを押さえていないと,
「あのインディーゲームはこれぐらいの規模で作ったそうだから,大手で類似品作ったら,もっとすごいのができるんじゃないのか?」「できませんでした!」
みたいな事例が発生します。
大手のパブリッシャとデベロッパで作るときには,「こういうゲームを作るぞ」からの,プロデューサーの思惑,ディレクターの思惑,開発者の思惑,その他関わる人の思惑などが交差します。全員が政治的な綱引きをしている状況では,だれもが思い通りの動きができず,不満を抱えます。
そこが,「ちょっとテストコード組んでみました。これに肉付けしていきましょう」というフットワークでやれるインディー界隈に及ばないところです。
大規模化すると発生する責任,意思疎通コストですね。関係者多すぎ,船頭多すぎ,船が山にハイキングしがち,というやつです。
もちろんインディーゲームも同じ轍を踏むことは多いです。成功例だけが煌めいて見えるのでしょう。
頑張り過ぎの弊害
開発チームのメンバーは,自分の責任箇所のクオリティを上げようとします。「お前のところのクオリティが低かった」とは言われたくないでしょうし,「あれは俺がやった」と華々しくポートフォリオを飾りたい気持ちもあるでしょう。
ですが,個人でできる範囲ならともかく,チームを巻き込むと「コスト」的に本来望ましくない動きになります。
「開発チームの規模は大きく,全体的にまんべんなくコストがかかっているが,尖って面白いところのないゲーム」というのは,こうやってできあがります。
実際のところ「コストの綱引きでめっちゃ頑張っているが,ゲームには貢献していないパート」というのは意外にあります。
プレイヤーが求めているものがそれならば問題はないのですが,コストの綱引きに参加している人のうち何割かは,プレイヤーとは違うゴールを見ていたりもします。「こういうキャラ出したい」「こういうネタ仕込みたい」「あのゲームのこれを再現したい」などなど。
で,大勢で綱引きしているから,責任者があいまいです。誰のせいでこうなった? となったとき,そこがフワフワしてたりします。
最近ですと,「アレコレに配慮しましょう」が行き過ぎた結果,プレイヤーからの評価を得られないゲームになる例が結構ありますよね。名前を挙げたりはしませんよ!
よく分からないまま,よく分からない仕様が追加され,現場は「この仕事は何のための仕事だ?」と思いながら作る。
ゲーム開発における座組の難しさ,意思疎通の難しさは,プロジェクトの肥大化や複雑怪奇化によって,今までないレベルまで跳ね上がっている気がします。
民主的な開発をすると,スキルレベルの一番低いところが基準になりがちですし。偉い人が詳しいかどうか,その関わり方,そのあしらい方でもかなり揺れ動きます。
善意からダメゲーになることはいくらでもあって。クソゲーへの道は,善意でツルツルに舗装されているので,気を抜くと真っ逆さまに落ちてデザイアです。
「そこで頑張ってはダメ!」「頑張るな!」
さて大丈夫でしょうか。
望ましい独裁
「ええい,面倒くさい。もう細かいことは知らぬ。独裁だー!」となる気持ちもちょっとは分かっていただけたでしょうか?
「意見はみんなから聞く,ジャッジは俺がする,責任は俺が取る」
これが望ましい独裁だと思います。責任がブレていない!
ゲーム好きで知られ,自身でもゲーム開発を手がけた落語家の三遊亭円丈師匠が「ポプコム」というパソコン雑誌で,「ゲームはゲーム天皇が一人いて,全部決めていけばいいんだ!」というようなコラムを書いていました。
「サバッシュ」の開発時期だと思います。てことは1988年ぐらいかしら。今でもおぼろげに覚えています。
独裁というと聞こえが悪いですが,結局責任者が責任を取る形で決めていかないとどうしようもない,みたいな話です。
「ここのパートを凝りたい」「いやこっちを凝りたい」と,コストの綱引きが発生した時に「今回そこにはコストをかけない」とズバっと切れる人は重宝されます。
このジャッジをせず,うやむやに進めて,無駄に高コスト化させるのは最悪ですしね。
AAAタイトルに感化された,普通予算規模のタイトルで,ディレクションが甘いとそういうことになりがちです。売り上げや面白さにかかわらないところに善意で凝りだす人がいるのは述べた通りです。
「そこはやらない」「そこは後でやるから今は手を付けない」「ここだけは是が非でも今やる」「そこは手を抜け,コストをかけていいのはここまでだ!」というジャッジは,何でもできる今だからこそ重要です。コストは大事なところにかけねばならない。
しかしこれを合議制で決められるか,決めた結果が正しくなるかというと,難しいでしょう。予算削減話を合議制で決めたら,自分のパートの予算削減には誰だって反対するでしょうし,みんなが大人な対応をしていくと,全体からまんべんなく削減されかねません。全体からまんべんなく削ったら,それは微妙なゲームになるでしょう。
別に,独裁者が全知全能である必要はなく,ここは彼に任せる,ここは君のチームできめてくれ,と任せる能力,見る目があればいいわけですし。本人に見る目がなくても,見る目のある人に任せる手もあります。
責任者が責任を取るつもりで動けていれば満点だと思います。現場に無駄な仕事をさせないのが一番の開発効率UPですから。
愚人でも,責任さえ取れるなら……
こういったことを踏まえて,「愚人の独裁」を改めて考えてみると,「意見はみんなから聞く,だがジャッジは俺がする,その責任は俺が取る」と宣言しながら,ジャッジはしょっちゅう間違うし,意見を聞かないことも多い……という感じでしょうか。
なんだこれ,可愛いもんじゃないか。という気がしてきませんか。
責任を取らずにフワフワと進行するのにリテイクだけ大量発生するような仕事と比べると,「責任取ってくれるなら割り切って働くぜ!」という気分になれそうです。
実際は,自腹で開発でもしてない限り責任なんて取れませんし,頑張ったチームのメンツにボーナスや良いポートフォリオを与えることもできないかもしれません。
でも「責任は自分にある」と認識している人ならば,リスペクトできます。
民主主義的な開発は,愚人の隠れ蓑
はい石を投げるタイミングが来ました。避ける準備は万端です。
基本的に民主主義的な開発は,愚人の独裁の隠れ蓑だったりします。
実態としては,決定権者がいて,パートリーダーがいて,作業者がいて……という状況で「みんなで考えよう! みんなで決めよう!」というのは,責任を薄めているだけですね。
「ジャッジは俺がする,責任は俺が取る」が言えないから,「みんなの意見を聞きました」という体裁を取るんです。
「誰々さんがこういった」「アンケートがこうだった」「クライアントがこういっている」。いろいろありますが,誰が何を言おうと,その意見を飲むか飲まないかは決定権者の判断で,決めたらそれ相応の責任が生まれる。
仕様変更にはコストがかかるし,既存仕様の破棄はモラルを下げる。その影響は決めた人が背負わねばならないのだけれど,民主主義的になんとなーく責任を回避するわけです。
やるべきこと,つまり「目的」ががっちり決まっていて明文化されていれば,民主的な進め方でも行ける場合はありますが,この当たり前の「ゴールの設定」で間違ったり,右往左往したりはよくあることです。
そもそも開発に数年もかければ,開発自体は順調でも市場のトレンドは変わるし,作っている人の脳内も変わります。不安になった偉い人も善意で「こうしたら?」とか言いますし,言われた方がそれを無下に断るには覚悟がいります。
皆が善意で動いているからこそ,権限を持っていても,ちょっといい顔したくなっちゃう。失敗のリスクを自分以外に分散したくなってしまう。みんなが大人の大所帯なだけに,曖昧模糊としがちです。
決定権者はつらいよ
何でもできる状況で,すべてをやれば大赤字。
何をするかよりも,何をあきらめるかが重要な局面,さてどうするか。
「この機能は要らない,オミットだ!」
という判断が必要なのは書きましたが,実際にやるのは非常に難しいわけです。責任が伴うことですし。
「あの仕様が入らなかったから売れなった」という状況に対する恐怖から,あれを入れる,これもやる,ちょっとでいいからここもやりたい。「この機能がないと長期的な運用が難しい」「ここのクオリティをもう少し上げたい」と言われたときも同様。
本当にその機能やクオリティは,プレイヤーにとって必要か? 売り上げに貢献するか? 問題として明確に把握せずにズルズルと進んでしまう。
ゲームを良くしようと思って,ゲームをマズくすることは発生しがちです。手を広げ過ぎて全体的な完成度が下がる。予算,人員,期間がない中でする無理は,全体のクオリティを大きく下げます。
不要なものをカットしてこそ,重要なもののクオリティが上がります。優柔不断は敵。
誰の知恵を借りてもいいけど,決めるのは責任者です。
正しいジャッジを早めに下し,無駄仕事を極力減らす。そして責任を他者に押し付けない。そういう神様のような独裁者が欲しいですね。無いものねだりかもしれませんが,「この人はすげぇな」と思う人は実際にけっこういます。
まとめ
ここ数年,死屍累々の現場のグチを大量に聞いたので,興味深いものを思い返しながら,開発現場の意思疎通や決定権の問題を,民主主義と独裁というキーワードでまとめてみました。
自分自身は比較的仕事運が良いので,あんまりひどい目には合ってないんですよね。今後もなるべく幸運だと助かります。これも人,場所,タイミングで違うのでしょう。
自分がプロジェクトにかかわるときは,どのスタンスで行くか,どれぐらい能動的に動くか,状況や空気を読んで,ポジションに合わせて調整します。みんな大人だから,表向きにはモメないので,自分のスタンスでうまく行っているかどうかはほんとヒヤヒヤしながらの答え合わせですよ。
それでは今回はこのへんで!
レッツデスマーチ回避!
■■島国大和■■ 有名ゲーム系Blog「島国大和のド畜生」の管理人で,不景気の波にもがく,正体はそっとしておいてほしいゲーム開発者。担当編集は,あるゲームの特典だった開発ドキュメンタリー映像で見た,ディレクターが会議で必死に食い下がる部下を退けて自身の意見を通すシーンが印象に残っています。あれをできるか否かが大きいんでしょうねぇ。 |
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